豆腐の角に頭をぶつけても死ねないと思う今日この頃

今日は、立川志の輔独演会at東京国際フォーラム
今日のチケット、なんと大学主催の落語鑑賞教室とかいうので、タダだった。
なにしろ、志の輔はチケットが秒殺されるほどの入手困難な落語会だから、大学の企てにただただビックリ。しかもS席4000円の振る舞い。
そして、そんな貴重なチケットなのに、50人中20人くらいがドタキャンするという、さらなる暴挙にビックリ。テスト前だからって、これはヒドイだろ。

前座「たらちね」
どうも、口調が現代っぽく、まあそれは志の輔の影響だろうと思うが、でもいやだった。
テクニックはあるけど、演者が若いから、世界に引き込まれないのかもしれない。
「おひらき」じゃなくて、「おしらき」
「ゆや」じゃなくて、「ゆーや
「ひをおこす」じゃなくて、「しをおこす」
と、いちいち発音を訂正したい衝動に駆られる。まあ、江戸前口調は現代の落語にはいらないかもしれないけど。

立川志の輔「千両みかん」
志の輔の千両みかん、すごく生で見たかったから、今日という日に、そして自分の運のよさに感謝!
もはや自分の頭の中では、

Theorem 1
志の輔⇔「千両みかん」
proof
今日の高座より自明

という定理が成り立ちそうだ。
番頭の、暑さで狂ってゆく場面が秀逸。みかん問屋の商売にかける意気込みの描写も驚くほど丁寧だ。

僕は、この話のどこが好きかというと、最後の場面。
「手のひらに300両、あたしが暖簾わけをしてもらうときにもらえる金が、30両・・・・」

そして、このあとに流れる、どうしようもない人生に対する虚しさ、不条理さが大好きなのだ。
ここに、人生の驚くべき闇が潜んでいると思うのだ。

「オレは、なんのために今まで生きてきたのか・・・・」

志の輔も、そこらへんが見ていていい味が出ていた。彼の語りは、しみじみするところではゆっくり、声を落として、それが心を打つ。
だれか、この主題を前面に押し出した演出で、千両みかんを演出してくれないかなぁ。


後半は「荻生豆腐」
初めて聞いた話だけど、道徳的で、どうも嫌いな噺だ。
この噺で、泣く人がたくさんいるそだ。信じられない。
こんなところでカミングアウトをしてもしょうがないが、どうも志の輔の落語は自分は好かない。
もちろん、上手いし、現代的な演出力は抜群だし、笑いのセンスも圧倒的、現在を代表する落語家だと思うけれども、なんだろうか、好きになれない。
上手さや、説明豊富で明確な語り、わかりやすさに対して、自分はひねくれているせいか、上手さに反発してしまう。
それは、故人の落語にも言えて、志ん朝小三治、円生とかも、すごく上手いんだけど、どこか好きになれない。
それよりも、昔の人で僕が好きなのは、柳好、円遊、可楽、そしてなにより志ん生だ。

この自分の好みは、いつかしっかり考えて、文章にしてみたいと思った。